第3回の企画を終えて
御茶ノ水のリンキーでの企画はこれが2回目。設営での心配がほとんどなかったので、無心で楽しめました。
娘にとっては、ライブに行くこと自体、これで何回目だったかな。前日、眠る直前の娘に「明日はみんなでライブに行こうね」と声をかけておいたら、翌朝、起きるなり「キョウハタカギサンギターヒクノ?」「サッチートタカギサンニアエルネエ」と嬉しそうに喋っていました。親が思うよりずっと、ライブを楽しみにしながら寝ついてくれていたようです。「ライブ」がなんなのか大体わかっているようだし、楽しいものだとも思ってくれているようで、妻と安心しています。
後日、mamaririのライブを見に娘とお出かけするときも、「タカギサンニアエル!」となにか勘違いをしていました。先日、妻が娘に「パパは部屋で練習してるよ」と言うと、娘が部屋に飛び込んできて「アレ? タカギサンハ?」と顔をしかめました。「そういつも高木さんがいるわけではないよ」と伝えたわけですが、ライブ=誰かしらの演奏を見たり高木さんと遊んだりできるところ、練習=高木さんと何かをすること、と思っているようで、この3年間ほどを振り返ると、実態に即した認識であるように思えます。
話はかわって、人生を選択の連続のようにいうことに嫌悪感があります。その物言いの単純明快さに、かえってどうも納得がいかない。まあ、選択にも複雑性があって、ひとつひとつの選択は沈吟して嘆息してやっとどうにか選んだ選択肢であって、それを幾重にも積んでいくものだから人生の深淵は真に底知れないものだという、人生のつかみどころのない広がりを示唆し、むしろ意表をついてどきりとさせるような言葉ととることはできるのでしょうが、あくまでも個人的な感覚としては、理解・分析ができるわかり易い世界観への誘い、単純で楽な原子論的価値観への滑らかな導入であるようにどうしても感じられて、落ち込みます。
啓蒙ブログではありませんので、それだけです。過去の選択の、振り返るとその蒙昧としたところに、難しさを感じる。時が経つとコミカルにさえ思える、ということがあります。自分の選択。よく分からなくてひどくばつの悪い思いをしながら使う分には、(自分に)許される言葉であるようにも思えます。
もう8月は末。9月は企画をしません。10月も、しないかもしれません。順調な活動とは言えないな。7年くらい前からの自分の選択の一連が良いものだったのか、疑っているときがあります。こんな言葉はとつべこべ言っておいて節操がありませんが、その程度のことです。
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